小学1年生の息子を見ていると、「子どもに何かをやらせる」よりも、「興味を持ったときにすぐ手を伸ばせる環境をつくっておく」ことって大事なのかもしれないな、と思うことがあります。
最近、そのことを改めて感じた出来事がありました。
朝6時台、突然漢字を書き始めた
息子が卒園するとき、保育園から漢字辞典をもらいました。
もらった当時は「まだ1年生だし、漢字はもう少し先かな」と思って、しばらくしまっていました。でも、2学期から学校でも漢字が始まるので、6月頃に本棚の見えるところへ出しておくことに。
特に「これで勉強しよう」と言ったわけではありません。
するとある朝、6時台に起きた息子が自分で漢字辞典を取り出して、床に広げて漢字を模写していました。
書き順は違うし、机でもない。でも、本人は完全に自分の意思でやっています。
こういう姿を見ると、「正しくやらせる」より先に、「やってみたい」が出てきたことを大事にしたいなと思います。

「やりなさい」より、目に入る場所に置いておく
わが家では、勉強に限らず「興味を持ちそうなものを、とりあえず見えるところに置いておく」ことがあります。
漢字辞典もそうですし、トイレには漢字のポスターを貼っています。
図書館では一度にたくさん本を借ります。だいたい20冊くらい借りますが、借りた本は翌日には一通り読んでいるようです。読み終わっても返却期限までは置いておくので、気になったものを何度も読み返すこともあります。
親が「今日はこれを読みなさい」「漢字を3つ覚えよう」と決めるより、自分で気づいて、自分で手に取る。
その回数を増やせる環境をつくるほうが、今の息子には合っている気がしています。

子どもの「興味のシグナル」を拾ってみる
もちろん、何を置いておいても興味を持つわけではありません。
だから最近は、息子が何度も話すことや、何度もやりたがることを「興味のシグナル」だと思って見るようにしています。
たとえば最近は、生き物や魚への興味がかなり強くなっています。

川での生き物調査に参加したり、葛西臨海公園の干潟で貝や小さな魚を探したり、水族園へ行ったり。
親が「生き物について勉強させよう」と始めたわけではなく、本人の興味が先にあって、その先に行けそうな場所や本を親が用意している、という感覚に近いです。
興味があると、「これは何?」「どうして?」が勝手に出てきます。
そこから本を読んだり、実際に見に行ったり、家に帰ってからまた調べたりする。
学校の勉強とは少し違って見えても、こういう経験も全部「学ぶこと」なんだろうなと思っています。
親が全部教えなくてもいいのかもしれない
以前は、子どものためになることを考えると、「何を教えよう」「何をやらせよう」と考えることも多かった気がします。
でも最近は、親の役割は少し違うのかもしれないと思うようになりました。
本人が何かに興味を持ったとき、その少し先に進めるものを置いておく。
本だったり、図鑑だったり、ポスターだったり、実際に体験できる場所だったり。
そして手を伸ばしたときに、すぐ使えるようにしておく。
逆に興味を示さなければ、そのままでもいい。
そんな距離感のほうが、「勉強=やらされるもの」になりにくい気がしています。
「自分からやった」をなるべく邪魔しない
朝から床に座って漢字を書いている息子を見たとき、本音を言えば「机でやったほうが書きやすいよ」「書き順違うよ」と言いたくなりました。
でも、それよりもまず、自分で辞典を見つけて、自分で開いて、自分で書き始めた。
そこが一番大事なのかな、と。
小1なので、これから学校で覚えなければならないことも増えていきます。いつでも本人の興味だけに任せられるわけではありません。
それでも、家庭の中ではできるだけ「やりなさい」を増やすより、「やってみたい」が生まれやすい環境をつくっておきたい。
子どもの興味は、大人から見ると突然始まったように見えることがあります。
でも実は、その前に小さなシグナルがいくつも出ているのかもしれません。
そのシグナルを拾って、ほんの少しだけ環境を整えておく。
今のところ、わが家ではそれくらいがちょうどいいのかなと思っています。


